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 不純な天気がちょっと一休み。今日は暖かい日差しが出てやっと春めいてきた感じだ。人は暖かくなると考えも積極的になるようだ。午後3時、「都麻の郷交流グラウンド」(つまり多目的?)で疲労を抜きながらのウォーキング&ランニングを行った。山々がぱっと輝いたようで、「みすぼらしい」400mトラックがありがたい。なんといっても「貸し切り」状態(毎日のことだが)。誰に気兼ねすることなく思いどおりの調整が可能なのだ。開幕戦の疲労は想像以上で、まだ体にダメージがある。

 「今年も同じメンバーで野球が出来ていいですね」

 あいさつを交わして、2024年度兵庫県還暦野球連盟「古希の部」の三田プリンス開幕戦を迎えた。3月11日(月),三田谷公園野球場に川西ジャガーズを迎えた。まあ練習はちゃんとやっているから投球に不安はない、はずだった。ところがエースとしては恥ずかしい試合内容となってしまった。三田プリンスのホームページから拾ってみると・・・。事務局担当はどのように感じていたかがわかる。

 「初回川西が3安打で2点を先取。さらに2回には三田の2失策に乗じて1点を追加。三田は、その裏、連打に相手の失策で得たチャンスからタイムリー2点打で1点差とする。3回裏には四球のランナーを2失策で同点。2点をリードされた4回、四球や相手の3失策に乗じて4点を挙げ逆転。そのまま、時間切れで逃げ切る。初戦としては、反省することの多い一戦であった」

 まったくわたしとしては反省の多いゲームだった。5点も取られるなんて思いもしなかった。最終回(5回表川西の攻撃)にやっとセットポジションからのフォームが元に戻って助かった。足の踏み出し方がおかしかったのだ。7-5のリードで迎えた5回表、先頭の4番打者が左打席に入った。それまで速球にタイミングが合ってないのに「落ちる球を投げてみようか」と余計な考えが。軽くすくわれてライトオーバーの三塁打。

 「このランナーは無視しましょう」と監督の3塁手Hさんがマウンドへ寄ってきた。「うんうん」。次の打者は2本のヒットを打っている最強打者Hさん。彼を出塁させると同点のランナーとなるからここが踏ん張りどころだ。ところがボールカウントは3ー2に。しかしここからがヴェテラン投手の強味、ファウルが3本続いて、さいごは詰まったボテボテのあたりが三塁前へ。力で勝った。走ってきた三塁走者は本塁でタッチアウト。この回にフォームが戻っていなかったら「同点は覚悟」の場面だった。

 試合後の反省事項はひとこと「準備不足」だったこと。2月14日還暦チームの練習試合で1イニングだけ投げた。調子は良かったのだ。だが19日の練習試合が雨で流れ、試合を想定した紅白戦もまた雨。さらに2月22日にコロナ陽性反応が出て一晩だけだったが、38度の熱が出た。それで5日間休養。5日過ぎると完全に戻ったがそこから練習を開始しての開幕戦だった。「そりゃあかんわ」と思った。

 還暦の練習試合で感じたのだが、川西はチームがまとまっていて全員の意欲が感じられた。仕上がりが早かった。古希でも油断はできないぞと予想はしていたが、よく打たれ、エラーも「よく出て」、悪いときのプリンスが顔をのぞかせた。だが、だが、それでもきっちり逆転してくれるメンバーの底力。苦かったが、わたしにとってもチームにとっても「良薬」となったはず。次回は「謙虚に、初心で」と。

 新監督に「1勝」をプレゼントできてよかった。シーズンが終わるときに、「初戦の川西戦がいちばんやばかったなあ」と笑えるように、さあ初心に戻って19日(月)の宝塚グリーンスターに臨まなくては。大リーグ研究家、故今里 純氏の評伝はやっと95頁まで進んだ。古希野球投手の春は19日から始まるぞ。

 75歳を迎えるシーズン、仲間と元気に野球ができるなんて本当にありがたいことなんだ。


 不純な天気がちょっと一休み。今日は暖かい日差しが出てやっと春めいてきた感じだ。人は暖かくなると考えも積極的になるようだ。午後3時、「都麻の郷交流グラウンド」(つまり多目的?)で疲労を抜きながらのウォーキング&ランニングを行った。山々がぱっと輝いたようで、「みすぼらしい」400mトラックがありがたい。なんといっても「貸し切り」状態(毎日のことだが)。誰に気兼ねすることなく思いどおりの調整が可能なのだ。開幕戦の疲労は想像以上で、まだ体にダメージがある。

 「今年も同じメンバーで野球が出来ていいですね」

 あいさつを交わして、2024年度兵庫県還暦野球連盟「古希の部」の三田プリンス開幕戦を迎えた。3月11日(月),三田谷公園野球場に川西ジャガーズを迎えた。まあ練習はちゃんとやっているから投球に不安はない、はずだった。ところがエースとしては恥ずかしい試合内容となってしまった。三田プリンスのホームページから拾ってみると・・・。事務局担当はどのように感じていたかがわかる。

 「初回川西が3安打で2点を先取。さらに2回には三田の2失策に乗じて1点を追加。三田は、その裏、連打に相手の失策で得たチャンスからタイムリー2点打で1点差とする。3回裏には四球のランナーを2失策で同点。2点をリードされた4回、四球や相手の3失策に乗じて4点を挙げ逆転。そのまま、時間切れで逃げ切る。初戦としては、反省することの多い一戦であった」

 まったくわたしとしては反省の多いゲームだった。5点も取られるなんて思いもしなかった。最終回(5回表川西の攻撃)にやっとセットポジションからのフォームが元に戻って助かった。足の踏み出し方がおかしかったのだ。7-5のリードで迎えた5回表、先頭の4番打者が左打席に入った。それまで速球にタイミングが合ってないのに「落ちる球を投げてみようか」と余計な考えが。軽くすくわれてライトオーバーの三塁打。

 「このランナーは無視しましょう」と監督の3塁手Hさんがマウンドへ寄ってきた。「うんうん」。次の打者は2本のヒットを打っている最強打者Hさん。彼を出塁させると同点のランナーとなるからここが踏ん張りどころだ。ところがボールカウントは3ー2に。しかしここからがヴェテラン投手の強味、ファウルが3本続いて、さいごは詰まったボテボテのあたりが三塁前へ。力で勝った。走ってきた三塁走者は本塁でタッチアウト。この回にフォームが戻っていなかったら「同点は覚悟」の場面だった。

 試合後の反省事項はひとこと「準備不足」だったこと。2月14日還暦チームの練習試合で1イニングだけ投げた。調子は良かったのだ。だが19日の練習試合が雨で流れ、試合を想定した紅白戦もまた雨。さらに2月22日にコロナ陽性反応が出て一晩だけだったが、38度の熱が出た。それで5日間休養。5日過ぎると完全に戻ったがそこから練習を開始しての開幕戦だった。「そりゃあかんわ」と思った。

 還暦の練習試合で感じたのだが、川西はチームがまとまっていて全員の意欲が感じられた。仕上がりが早かった。古希でも油断はできないぞと予想はしていたが、よく打たれ、エラーも「よく出て」、悪いときのプリンスが顔をのぞかせた。だが、だが、それでもきっちり逆転してくれるメンバーの底力。苦かったが、わたしにとってもチームにとっても「良薬」となったはず。次回は「謙虚に、初心で」と。

 新監督に「1勝」をプレゼントできてよかった。シーズンが終わるときに、「初戦の川西戦がいちばんやばかったなあ」と笑えるように、さあ初心に戻って19日(月)の宝塚グリーンスターに臨まなくては。大リーグ研究家、故今里 純氏の評伝はやっと95頁まで進んだ。古希野球投手の春は19日から始まるぞ。

 75歳を迎えるシーズン、仲間と元気に野球ができるなんて本当にありがたいことなんだ。


 3月2日(土)のこと、西脇公園野球場の本部席で定番の弁当(ほっともっと)を食べていたら来客があった。訪問者は元マスコミ関係のY氏だった。「いやぁ1か月もblogの更新がなされてないから体調でも悪いのかと」思ってのお伺いだった。元気なわたしを確認するとさっと帰って行かれたが、後ろ姿に頭を下げた。こういう知人(読者)がいる幸せを感謝した。

 ブログ更新の余裕もなく、連日、故・今里 純先生の評伝「ベースボールと野球を繋いだ男」の執筆にかかっている。学生時代の逸話から、英語と野球が結びついた経緯まで、正確な年代や資料を整理、確認しながらの執筆は初めての経験だ。多くの事実がわかってきた。

 世間に知られることなく12年間、今里さんは毎夜毎夜、仕事後の時間をアメリカからの短波放送受信に費やした。ラジオから流れる大リーグ中継に感動しながら、英語を学び、戦後の自由や民主主義を肌で感じていた。息子さんの言葉が重い。「父は当時、西脇市には本当の理解者はいなかったと思います」。

 今里先生は後に語っている。「わたしはケーシー・ステンゲル(ニューヨーク・ヤンキース監督)やスタン・ミュージアル(セントルイス・カージナルスの名選手)の手の温もりを感じながらラジオを聴き、スコアをつけていた」と(握手をしているんですね)。「日本野球には興味がなかった」男が逆輸入された。

 1958(昭和33)年にセントルイス・カージナルスが来日し、ミュージアルはじめ多くの選手が「ドクター・イマザトに会いたい」と申し出て、日本球界は彼の存在を知った。カージナルス側からは吉田 義男(阪神)や山内 一弘選手(大毎)を今里に紹介した。アメリカは今里先生に日米両球界の橋渡し役をしてもらう意図だったと思われるが、日本のコミッショナー事務局の井原 宏事務局長と引き合わせている。今里先生の人生が大きく変わる記念の年、昭和33年だった。長嶋 茂雄巨人入団の年のこと。

 やっと75頁まで進み、今は阪神球団が初の海外キャンプを行ったレークランド(フロリダ)の項まで筆が走った。今里先生が数年にわたって文通をしていた人物がデトロイト・タイガースの職員になり、やがてGM(ゼネンラル・マネージャー)を経て球団代表となったりして、大リーグに幅広い人脈が出来ていった。すごい仕事をした人だった。苦闘しながらも故人の業績を辿っていると、「研究」の楽しさもわかってくる。

 その充実感は古希野球のピッチングにも好影響があって、2月14日還暦の練習試合(川西・向陽台)では1イニングながら速球とカーブが予想以上に良かった。早い仕上がりだった。7番一塁で出場の機会を得て、打っては3打数の2安打、センター前とレフトオーバー。さあ3月11日から古希の公式戦が始まるぞ、西脇軟式野球協会も学童の試合から今シーズンがスタートだ、がんばろう!と、思った矢先に「コロナ」。

 2月21日、友人二人を誘って妻と4人、焼き肉&お好み焼きの「楽しい晩餐」をした。その夜から体調がおかしくなって検査をしたら、見事に試薬の縦線が二本、ばっちりと赤く描かれた。「コロナ陽性」。免疫力が高いはずだから「かかるわけがない」と思っていた男が、妻と友人二人(とその奥さんたちも)巻き込んでの大失態。どこで菌をもらったかがわからない。わたしの発熱は一夜だけで丸5日をもって完治したが、持病を持つ妻は苦しい一夜を過ごした。コロナにはまだまだ油断召されるな、そう伝えたい。

 ブログ未更新にはこういうアクシデントもあったのだ。人々は「やはり健康が一番ですね」と口にする。健康体の人は「健康」のことは考えない、当然すぎることだから。しかしねえ、今回老夫婦?が揃って静養していると、何年後か何十年後かの生活が予想されて「ゾッとする」と思ったのも確か。あらためて健康の大切さを痛感した日々だった。

 だが幸運だった。古希野球の公式戦前のコロナ。逆に疲労が抜けてよい結果を生みそうだなと感じている。妻も仕事(障害者施設)に出た。野球協会も土日の試合を消化した。トレーニングも復活した。やっとシーズン開幕の気配だ。それにしてもなんでこんなに寒い?雨が多い?こういう季節こそみなさん、「健康」に気をつけましょう。





評伝を書いている。出版予定は来年7月だが、気持ちの準備としては「本年度中に脱稿」のつもりで書かないといけない。タイトルは「ベースボールと野球を繋いだ男」。出版元は(株)ヘソノオ・パブリッシング(代表 越川 誠司)。

 「生まれ育った兵庫県北播磨、経緯度上で日本列島の中心点にある「日本のヘソ」=西脇と多可発で本を創り、県内はじめ全国へと、できれば世界へと届けてみたい。

 そんなことを想いたちました。

 西脇と多可はまた、播磨・丹波・但馬・淡路・摂津が合わさった「ひょうご五国」の多様性から「日本の縮図」とも呼ばれる兵庫県の、そのほぼ真ん中に位置しています。

 山の樹々の緑と穏やかな川の流れ。自然の恵みに富むひょうごローカルの暮らしに根差した、読み手の五感に響くような本。

 紙の匂いと手触りを味わい、心弾ませページを捲る、愉しい読書のひとときへと誘う本。

 末永く手に取って慈しみ、大切に読み継がれるような、佇まいの美しい本。

 そんな一冊を産み出せたら・・・」

 新たなチャレンジに胸の高まりを覚えている越川代表が納得いく本を書かなくてはならない。文学的であり、研究書的なものを。そう思うと書き出すまでは熟睡できない日が続いた。西脇が生んだ稀有な大リーグ研究家・今里 純さんをわたしの力量で描くことが出来るだろうか、と。

 そうして1月中旬から書き始めてやっと40頁まで筆は進んでいる。そして分かったこと。戦後の自由な雰囲気の中での歯科大学生活。今里さんはそこで野球を愉しみ、英語を身につけけ、作業中の米兵捕虜と会話を重ね、FENのラジオ放送で大リーグ中継を聴いてはスコアを書いた。日本の誰にも知られず黙々と12年書き続けた。大リーグ関係者からは「ドクター・ジュン・イマザト」は「世界一の野球ファン」と認証されながら、日本では無名の人。

 ところが1958(昭和33)年のセントルイス・カージナルス来日で今里の名は日米両球界にパッと拡がっていった。その時に受けたラジオ向けインタビューの内容が判明した(越川代表の尽力による)。英文が和訳できた。まだまだ日本人が「敗戦コンプレックス」を残していた時代のこと、今里先生はアメリカ人相手に堂々と流ちょうな英語で渡り合い、ジョークも交え、彼らを圧倒した。

 カージナルスの大スター、スタン・ミュージアルが来日と同時にいったという。「ジュン・イマザトに会いたい」。今里は試合前、あるいは試合最中にカージナルスの専属アナウンサー・ガラジオラからインタビューを受けているが、その声はミシシッピ・バレー(6州にまたがる広い地域)に流れている。

 和訳直後の越川さんが書いている。「元コミッショナーのフォード・フリック氏の言葉を見てもわかるように、大リーグ関係者が日本の野球ファン、ひいては日本人に対して好意的な眼差しを向けるのに、今里氏は多大な貢献をした」。

 「評伝」を書くことは集中力と根気がいる。目が疲れたり、構成が決まらなかったり。そんなときは今里さんが毎夜6時から9時まで行っていた儀式、「ラジオを聴きながらスコアをつけ、大リーグの資料に目を通しながら左手で丼をかきこむ」ことを思い出しながらパソコンに向かっている。

 「評伝を書く」ことは対象の人物といっしょにアメリカを旅することだ。今は朝から眠るまで、「ジュン・イマザト」とアメリカの風景が頭を支配している。もし、書き終えたら、自分として一段の高みに(人間として)のぼれるように感じているが。

 今日は午後から「たつの市新宮町」で開催の播但地区協議会へ出向く。11日(日)は西脇軟式野球協会の審判講習会と総会。22日(木)は北兵庫地区理事長会。23日(祝)は神戸市の「まちづくり会館」で県連盟の常任理事会と、軟式野球のシーズン開幕を告げる行事が続く。忘れてはいけない、わたしは古希野球の選手だ、14日(還暦)、19(古希)と練習試合が始まるのだ。まだまだ「プレッシャー」を感じる生活が続く。

 

  

 早いもので、もう7回目を迎える。NPO創設で地域の子どもたちを育てたい、そんな記事が「西脇時報」に掲載されて、それを見て「わたしにできることがあれば遠慮なく言ってくださいよ」と、わざわざ電話をよこしてくれた人がいた。8年近く前のこと。その人は、プロ野球通算317勝を誇る西脇市出身の鈴木啓示さん、勝利数歴代4位の名球会選手である。

 「鈴木さんの名を冠した少年野球大会をつくります」

 わたしは現西脇市議のSさんに協力を依頼し、以後二人三脚で「鈴木啓示 草魂カップ少年軟式野球大会」を育んできた。西脇軟式野球連盟、北播少年野球連盟がともに実行委員会となり、その現場の努力が7年間の成果を生んでいる。

 わたしたちは1年に一度、大会の際に顔を合わせ、ラーメンや弁当を共にしながら子どもたちの懸命なプレーに元気をもらう。去る11月24日(日)午前8時半、西脇公園野球場に大きな声が響き渡った。「プロ一年目のオールスターゲームでのこと、先ほど亡くなられた400勝の大投手・金田正一さんにカーブを教えてほしいと頭を下げると、ここは学校のクラブ活動じゃないぞ、授業料を持ってこいと相手にしてもらえなかった、そこから負けてたまるかとわたしの心に火が付いた」。

 今の小学生はもちろん、保護者であっても鈴木さんの現役時代は知らない。だが金田さんとの逸話は会場の全員に大きなインパクトを与えたようだ。それも手伝ってのことか、会場を巡回していると保護者の鈴木さんに対する笑顔に例年以上の親しみが込められているように感じられた。

 以下は317勝投手の勲章の一部である。 

•1安打試合 4回(1969/6/8、1969/10/3、1971/8/5、1971/9/28)

•1シーズン20勝以上 5年連続(歴代3位)合計8回(1967~1971、1975、1977、1978)

•開幕投手8年連続(歴代2位)

•完封勝利最多投手 5回(1971、1972、1977、1978、1983)

•1シーズン300奪三振(1968/305個)

•1シーズン200奪三振 5年連続5回(1967~1971)

•1シーズン100奪三振 13年連続17回(1966~1978、1980、1982~1984)

•47イニングス連続無失点(1962/7/7~7/29)

•1試合15奪三振 2回(1966/9/27対西鉄、1968/5/18対阪急)

•奪三振最多投手 1回(1962/270個)

•被本塁打最多投手 5回(1967~1969、1982、1983)

•防御率ベストテン入り 11回(1968~1971、1975~1978、1980、1983、1984)

 日本全国にプロ野球選手の名前の付いた野球場は7つある。スタルヒン、長嶋(2)、川上、山田、皆川、津田の各氏。さらに早稲田実業が王貞治記念、明治大は内海・島岡ボールパーク。プロ、アマ計9つを数える。となると、記念すべき10個目は、兵庫県西脇市の「鈴木啓示草魂スタジアム」であるべきではないか。

 S市議と夢を語り合いながら、実現に向けて努力は惜しまないと誓う、わたしの7年目である。

 日本一の野球の町・阿南市(徳島県)を訪問した。四国とはいえ寒さが残る2月10日(金)の事だった。「野球のまち推進課」なるものが存在し、モンゴルの野球場建設や東京六大学野球オールスター戦、あるいは還暦・古希野球大会など、青少年から中高年までの野球イベントを幅広く実施している姿を学ぼうと思ったのだった。

 阿南市出身の元巨人投手・水野氏(池田高校卒)のユニフォームなどが展示された廊下を通り推進課へ入ると4名の職員が快く迎えてくれた。初代の名物課長・田上重之さんの説明を受けた。

 岩浅市長は元軟式野球協会の会長。市長と二人三脚で「3年やってだめならやめればいいいや」と腹をくくって野球による町おこし、地域活性化に取り組んできたという。マスコミが注目し、多くの人たちが阿南を訪れることで市民の意識も変わってきた。旅館、ホテル、居酒屋まで潤う活性化事業。今では年間1億円の事業となっている。

 平成19年の5月には四国一の野球場、「アグリあなんスタジアム」(中堅122m両翼100m)を完成させ、2年前には屋内の多目的運動場「あななんアリーナ」を併設した。どちらも見学させていただいたが、立派な施設だった。

 各種野球大会実施の際にはチアリーディング・チーム「ABO60」が花を添えるという。それは何と年齢がオーバー60の女性たちのグループなのだ。「担当課の仕事だろう」いや「それは市民の一部が反対するから」と、おせおせになったりすべて平等にと考慮する中で事が進まないのが行政ではないのか。そう思っていたが、阿南市の首長をはじめ役所の皆さんのリーダーシップや協力が「日本一の野球のまち」を創りだした。

 廊下の階段に杉浦投手(元南海ホークス・殿堂入り)のパネルが飾られている。市との縁を聞くと何もない。大阪府堺市に住む杉浦選手のご遺族が自ら展示を願われたのだ。「私どもの所においているより野球のまち阿南市にお預けする方がお役に立てるでしょう」との意思だった。

 全国各地の行政関係者、元阪神監督・岡田氏の訪問など、阿南市を訪れる人たちは多い。推進課や廊下には、イチロー選手や合宿に訪れる高校野球部のユニフォームなど、貴重な品々が展示され、その場にたたずむだけで身が引き締まる思いになる。

 どの街、どこの市でも取り組めそうで出来ない壁、それは意を決する「首長のリーダーシップ」の差ではないのか。徳島大学横の古びた店で「釜揚げうどん」を食べながらそんなことを考えた。

 


 「バスケットをしたいけど中学校の部活動にない、高校でも活躍したい、もっと上手になりたい」。そんな要望に応えて今春、兵庫県北播地区に初の「ジュニアバスケットボールクラブ(U-15)」が誕生した。

 その指導者がわたしたち主宰のNPOスポーツアカデミーShine(シャイン:輝くの意)の理事となって活動を展開することになった。地域に欧米型のスポーツクラブを!が関係者の一致した見解である。

 そんなわけで最近は少年・少女のバスケットボールに触れる機会が多くなった。機敏なボールコントロール。小さな体でこなすワンハンドシュート。ゆったりとした半パンにカラフルなバッシュなど、野球の世界しか知らなかったわたしにはすべてが新鮮に映る。

 ① サッカー ② 野球 ③ バスケ  日本における子どものスポーツ人口だそうだ。ボーイズ、シニア、ヤング、ポニーなど中学生硬式野球クラブの各チームは新入団選手の確保に苦労をしていると聞く。子ども人口の減少とともに、スポーツへの価値観が多様化し、今後はさらに変化が起きる可能性がある。

 時を同じくして女子プロゴルフのトーナメントを観戦する機会を得た。4月9日のスタジオアリス・トーナメント最終日(花屋敷CC吉川コース)。そこで見た選手たちの華やかなプレースタイルや多くのギャラリー(家族連れや老夫婦の姿が目立った)。クラブハウスで交わされるスポーツビジネスの会話。ここにもスポーツの多様な価値を認識させる世界があった。

 バスケやプロゴルフ。他種目スポーツとの邂逅は指導者や保護者に奥行きのあるスポーツ観をもたらす。あらためて日本のスポーツ界に欠けている「多種目スポーツ」経験の重要性を感じたものだった。

 順天堂大学(昭和47年度)卒業の皆さんへ。これが手紙のタイトルである。島根に住む住職F君が個人負担で出し続ける同窓生ニュースNo.71が届いた。訃報だった。

 大阪府泉南地方に住むH・K君が亡くなったとの知らせだった。ハンマー投げや円盤投げの記録を持ち、高校時代から注目された選手だった。67歳。高校の同級生だったTっちゃんは「だんじり」の季節になると合宿所の自室で机をたたいて鼻歌を唄ったが、彼は最近亡くなったK君の田んぼや畑の面倒を見ていたと聞いた。今頃は悲しみを深く抱えていることだろう。

 島根の住職さんは言う。「この世の無常の道理。だからこそ、二年に一回行う同窓会が大きな意味を持つ」と。次回同窓会の日程はすでに決定されている。「平成30年9月15日(土)栃木県において開催」。同窓生ニュースを拝見するたびに、自分にとって大学とはなんだったのだろうかと自問する。

 兵庫の田舎から陸上競技の一流選手が集まる順大体育学部(千葉県習志野市・当時)へ進学した。一生懸命走った。マージャンを覚える余裕もなく。一流選手向けのスケジュールは実力のない体に疲労を蓄積させた。練習後の学食や銭湯、大久保商店街での「あしたのジョー」立ち読みなどで気分を紛らわせても、記録のない辛さ、認めてもらえないさみしさは日常生活の意識を支配する。人間にとって一番つらいのはプライドを持てない状況下におかれる事だと知ったのはずっと後のことだった。わたしにとっての大学時代は精神が悶々とした混沌期だったといえる。自らの偏ったスポーツ観が混迷を深めた。

 良い思い出が少ない。同窓会に背を向けた日々が続く。そんなとき世界陸上で大阪に参集したかつての陸上競技部のメンバーが我が家に電話をよこした。「オレたちは君を仲間だと今でも思ってる。一度会いたいな」。4年になるときに中途退部したわたしは記録上陸上部OBではない。同窓会誌ではわたしの部活動欄は空白となっている。配慮深い彼らに固い心が融かされて、3年前宮崎市の同窓会に初参加した。楽しい集いだった。

 住職の手紙に書いてある。「みなさんの歩んできた道はそれぞれに違ったものでしょうが、偶然に順天堂大学を選び、四年間を共に過ごした事実は変えることが出来ません」。そうだなとわたしは思った。F君のいうように、あの四年間がなければ教職につけなかったし、三人の子どもを大学で学ばせることはできなかった。女房との出会いも。

 K君のご冥福を祈りながら、不足ない年齢に差し掛かった自分の今後に思いを馳せる春。自称「田舎のスポーツライター」(わたしのこと)のペンネームは「習志野 博」。苦しかった四年間と言いながらしっかり懐かしんでいるじゃないかと苦笑する自分がいる。


 

 負けた。初回2失点のその裏、わたしの左前打から4連続ヒットで3点を取って逆転。試合はそのまま7回を迎え、マウンド上のわたしはひそかに勝ちを意識した。

 三田プリンスでの7年間を経て昨年1カ月だけ三木オルウェイズに参加。以後は仕事のために欠席ばかりで、実質今シーズンからが三木におけるわたしのルーキーイヤーとなる。そんな新人にチームの命運をかけて(つまり、最近は負けが込んでいる)先発させてくれた期待に応えたい、応えられる、もうすぐチームメイトの喜ぶ顔が見られる・・・。

 対戦相手の播磨ナインスターズを甘く見たのか、勝ちを焦ったのか、詰めの直球が甘く入り、あれあれ?と思う間もなく負のスパイラル。終わってみれば3-6の逆転負け。チームの勝利に貢献できず、申し訳なさが残る敗戦だった。

 永年野球をやっていれば敗戦を忘れるすべも身についたから気分転換は早かった。というのも久々に野球の素晴らしさを実感したからだ。

 1年のブランクを経て7イニング141球を投げる体力が戻った。実戦の中でカーブの切れが戻った。微妙な指の感覚が蘇ってきた。ヒットも打てた。スピードが9割がた自信持てた。あとはうまく変化球を使うだけ。この自信復活が今後に希望をもたらしている。

 旧知との出会いもあった。この試合を担当した審判団が三田のメンバー。家にも泊めていただいたM主審、1塁にはわたしの在籍時には新人だったKさん、二塁は先輩H氏、三塁は内野手だったNさん、「今は古希野球ですよ」と語る笑顔が懐かしい。Mさんはいつも厳しい。「あんな抜けた球を投げちゃイカン,体の開きが早いぞ」。その指摘も懐かしい。

 三木のチームは打たれた選手を批判せず、励ましてくれる選手が多い。三木、三田、それぞれに地域の雰囲気をのぞかせながら、還暦を過ぎて野球にいそしむ人たちだけが持つやさしさをみせてくれた。敗戦の悔しさをさわやかな感情に変えてくれる還暦野球。

 帰宅すると三田の元監督Nさんから電話が入った。「Mに聞いた。竹本が元気に投げていたと。そりゃよかった」。全身で還暦野球の人のつながりを感じた敗戦投手。またどっぷりとその魅力にはまり始めた自分を感じている。

 

 


 第4回WBC(ワールド・ベースボール・クラッシック)は米国の初優勝で幕を閉じた。

 米国との準決勝戦で1-2の好勝負を演じた侍ジャパンは実力通りの野球を披露したといえる。準決勝を前にわたしは思った。「日本野球の投手力、守りや攻撃のち密さを世界にアピールしてほしい。同時に世界に及ばない日本野球の課題を選手や関係者、ファンが認識すためには米国に勝たない方がいい」と。

 結果はその通りになった。米国の関係者は「スガノはMLBの投手としてりっぱに通用する」と語った。ひとつのミスがあれば勝敗は逆になっていただろうとも言った。日本野球のすばらしさを世界に証明することができた。これはイチロー選手(マーリンズ)の功績に確固たる価値を付加するものだ。

 実際にプレーした選手の感想はどうだろうか。菅野投手(巨人)は謙虚に語った。「野球人生で最高の経験だった。しかしこのピッチングがを2回、3回と続いたら実力だ」(趣旨)。山田、筒香、中田ら主力選手は一応に、米国投手陣のよく動く球、速球のコントロールに感嘆し、自らの課題を意識づけている。

 こうした選手の意識変化は大切だが、桑田真澄氏は、天然芝の球場や固いアンツーカーのグランドの必要性を指摘する。加えてわたしは、小学生、中学生のころから天然芝やアンツーカーの野球場に触れる事、慣れる事の重要性を強調したい。ラグビーの世界では幼い頃から天然芝でステップを踏まないと世界水準に到達できないとも言われる。NPBが本気でWBC世界一を目指すなら環境面での整備を視野に入れてほしいと思う。

 さらに人的交流を盛んにすることで世界水準の野球に慣れることも必要だ。カットボールやツーシームのいわゆる「動く球」を数多く経験することで克服が可能となる。日本プロ野球界がサッカーのように選手をどしどし外国へレンタルし、長期あるいは短期にMLBに選手を送る。そんな交流が実現すれば楽しいではないか。

 WBC準決勝の舞台はわたしになじみのドジャー・スタジアム。昨年6月のファーザーズ・デイは「マエケン」の当番日だった。アリージャンの丘陵地帯に建つ底抜けに明るい雰囲気のドジャー・スタジアム。

 日本選手、NPB関係者あるいはスポーツ・メデジアはそこで得た教訓を今後に活かしてほしいと願う。日本野球の今後に期待する人は多いのだから。

 

 

 

 兵庫県還暦野球連盟の2017年度リーグ戦が開幕した。ながい戦いが始まる。

 わたしの所属する三木オルウェイズは初戦2-8で姫路チャンピオンズに敗れた。リリーフしたわたしも失点したのだから守りの巧拙や登板のタイミングなど一切の言い訳は許されない。

 1年のブランクは大きい。昨年は6月灼熱のロサンゼルスで投げ、9月に東京で1試合プレーしただけで、あとは3~4度三木シニア(中学生硬式野球)で打撃投手を務めたのみでシーズンを終えた。もちろん個人で練習を重ねてはきたが。

 2月22日の練習試合では速球が冴えて完全復調かと思われたが、その後背中に張りが出て全力投球が出来なくなった。3月6日の播磨ナインスターズとの練習試合では6割がた回復したが、その後再び右足内転勤に異常が発生したのだった。かくしてわたしは67歳でのブランクの重さを噛みしめているところだ。

 新チームの練習スタイルに合わせようと試みたことも復調を遅らせた一因である。3月12日の土曜日に5イニング投げた(寒さの中で試合形式)。三田で過ごした過去の7年間にはなかった調整方法は微妙に腕の疲労を呼び込んだ。反省し、わたしは今週から自分の調整方法に戻してみた。

 そして今日は予感あり。完全復活!ピッチングも、ランニングも。ウェイトトレーニングの感触も戻っている。好不調はさておき、やはり1年ぶりの還暦野球は愉しい。ヒットを打って塁上に立つ。打点を挙げる。盗塁を成功させる一瞬。すべてが心身を若返らせる。

 昨年の12月、阪神タイガースのブルペン捕手・本田明浩君から指導を受けたドジャーズ仕込みのピッチング・フォームも固まってきたし、チームの勝利に貢献できる日が待ち遠しい心境になってきた。

 実はこの秋、アリゾナで野球をする予定だ。MSBLリーグの年齢別全米大会なるものがあって、ロサンゼルスの友人から誘われている。わたしにとっては初めてのアリゾナだ。その時までにはトップコンディションに持っていきたい思いが強い。

 2017年の春、新しいシーズン、新しい挑戦が始まった。

 

 


 ニューヨーク在住のS・G氏が日本時間の3月7日午前2:07、fbに投稿したことで訃報を知った。ハワイのJohn Baesslerさんが亡くなったのだ。

 ジョンは毎年日本へのツアーを企画、運営した。アメリカの野球好きが東海岸から、シアトルやロサンゼルスの西海岸から東京へやってくる、そんなツアーのコンダクターだった。

 ジョンもわたしもベロビーチ(フロリダ)のドジャータウン(かつての)でキャンプに参加した経験を持つ。その縁でわたしは毎秋東京で彼らと野球を楽しんできた。神宮外苑で、横浜の外国人クラブで、おおらかな底抜けに明るい野球を教えてもらった。そのジョンさんが亡くなったという。

 彼は若い頃大崎に住んでいた。2年前の事、大崎駅前の決して広くはない食堂へ行き、食後に銭湯へ入った。数人のアメリカ人も湯船につかった。夜は六本木のジャーマン・レストランで飲んだりした。すべてが思い出になってしまった。

 笑顔が爽やかだったジョンの冥福を祈りながら、彼らと野球を通じて友情を結んだ日々に感謝している。今秋、アメリカの友人たちは東京にやってくるだろうか。