大学同窓生がまたひとり逝去

 順天堂大学(昭和47年度)卒業の皆さんへ。これが手紙のタイトルである。島根に住む住職F君が個人負担で出し続ける同窓生ニュースNo.71が届いた。訃報だった。

 大阪府泉南地方に住むH・K君が亡くなったとの知らせだった。ハンマー投げや円盤投げの記録を持ち、高校時代から注目された選手だった。67歳。高校の同級生だったTっちゃんは「だんじり」の季節になると合宿所の自室で机をたたいて鼻歌を唄ったが、彼は最近亡くなったK君の田んぼや畑の面倒を見ていたと聞いた。今頃は悲しみを深く抱えていることだろう。

 島根の住職さんは言う。「この世の無常の道理。だからこそ、二年に一回行う同窓会が大きな意味を持つ」と。次回同窓会の日程はすでに決定されている。「平成30年9月15日(土)栃木県において開催」。同窓生ニュースを拝見するたびに、自分にとって大学とはなんだったのだろうかと自問する。

 兵庫の田舎から陸上競技の一流選手が集まる順大体育学部(千葉県習志野市・当時)へ進学した。一生懸命走った。マージャンを覚える余裕もなく。一流選手向けのスケジュールは実力のない体に疲労を蓄積させた。練習後の学食や銭湯、大久保商店街での「あしたのジョー」立ち読みなどで気分を紛らわせても、記録のない辛さ、認めてもらえないさみしさは日常生活の意識を支配する。人間にとって一番つらいのはプライドを持てない状況下におかれる事だと知ったのはずっと後のことだった。わたしにとっての大学時代は精神が悶々とした混沌期だったといえる。自らの偏ったスポーツ観が混迷を深めた。

 良い思い出が少ない。同窓会に背を向けた日々が続く。そんなとき世界陸上で大阪に参集したかつての陸上競技部のメンバーが我が家に電話をよこした。「オレたちは君を仲間だと今でも思ってる。一度会いたいな」。4年になるときに中途退部したわたしは記録上陸上部OBではない。同窓会誌ではわたしの部活動欄は空白となっている。配慮深い彼らに固い心が融かされて、3年前宮崎市の同窓会に初参加した。楽しい集いだった。

 住職の手紙に書いてある。「みなさんの歩んできた道はそれぞれに違ったものでしょうが、偶然に順天堂大学を選び、四年間を共に過ごした事実は変えることが出来ません」。そうだなとわたしは思った。F君のいうように、あの四年間がなければ教職につけなかったし、三人の子どもを大学で学ばせることはできなかった。女房との出会いも。

 K君のご冥福を祈りながら、不足ない年齢に差し掛かった自分の今後に思いを馳せる春。自称「田舎のスポーツライター」(わたしのこと)のペンネームは「習志野 博」。苦しかった四年間と言いながらしっかり懐かしんでいるじゃないかと苦笑する自分がいる。


 

スポーツちょっといい話 ~ 還暦野球オヤジのスポーツ・コラム~

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